memo

 それまでメルロ=ポンティはおおむね次のようなことを考えていた。『行動の構造』に結実している内容にあたる。
 ひとつは、身体の自覚の問題である。
 これは実存哲学者のガブリエル・マルセルが『存在と所有』という本で「自分の身体」というものを持ち出したことにヒントをうけて、人間は自分の身体をつかって何を知覚しているのか、何を身体にあずけ、何を意識がひきとっているのか、という問題に突き進んでいったことがきっかけだった。
 マルセルは「自分の意のままにならない身体感覚」がありうることを「不随性」(indisponibilite)とよんだのだが、そこにメルロ=ポンティは関心をもったのである。

 もうひとつはゲシュタルト心理学からの影響だった。
 「知能とは、知覚された領域にひそむさまざまな対象のあいだの関係をとらえる能力のことではないか」というものだ。
 従来、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされていた。複雑な行動もこれらの組み合わせによっているとみなされていた。要素還元主義である。しかし、ゲシュタルト心理学はこの見方をまっこうから否定して、同じ刺戟がしばしば異なった反応になることもあれば、要素的に異なった刺戟が同じ反応をひきおこすこともありうることを例にあげつつ、生体というものは刺戟の個々の要素的内容に対応しているのではなく、個々の要素的な刺戟がかたちづくる“形態的で全体的な特性”に対応しているという仮説をぶちあげた。この“形態的で、かつ全体的な特性”のことをゲシュタルトという。
 これはメルロ=ポンティに大きなヒントをもたらした。たとえば神経系のどこかの部分が損傷をうけたとすると、それによって一定の行動が不可能になるのではなくて、むしろ生体の構造のなかでこれを知ってこれを補う水準があらわれてくる、そのように考えられるからだった。

 ここでメルロ=ポンティに、意識と身体のあいだにひそむパースペクティブのようなものがはたらいたのである。しかもそれらは、どこか相互互換的であり、関係的で、射影(profil)的だった。そして、それをとりもっているのがゲシュタルト的なるものだった。少なくともメルロ=ポンティにはそう見えた。
 このような見方はデカルト的な心身二元論を決定的に打破するものである。それとともに、ゲシュタルト心理学者たちがゲシュタルトを自然の中にあるものとみなしたことを越えて、ゲシュタルトが知覚や意識の中にあるはずだということを予感させた。
 のちに、この意識にとってのゲシュタルトが、実は言語というものを生み出すパターンなのではないかということも、メルロ=ポンティによって提案される。

 こうしてメルロ=ポンティは後期フッサールを読み替える。もともと現象学は、われわれの意識や思索や反省、あるいは科学による研究や哲学による熟考が始まる以前に、すでにそこにあったであろう“見なれた世界”にたちかえるということである。
 そこでメルロ=ポンティは、それならば、「現象学的世界とは、先行しているはずのある特定の存在の顕在化ではなくて、存在そのものの創設なのではないか」というふうに読み替えたのだった。これはフッサールすらもが現象学的還元ということの目標をさだめそこなったことを暗示した。
 ここから『知覚の現象学』は大胆な知覚論や身体論に分け入っていく。
 まず「私の身体」は私によって意識されるとされないとにかかわらず、ある種の「身体図式」(schema corporel)のようなものをもっていて、これがいろいろな知覚や体験の変換や翻訳をおこなっているとみなした。いわば身体の中に“編集部”をおいたのだった。
 ついでこの身体図式からは、しばしば「風景の形態」や「芸術の様式」に似たようなものが、身体の「地」に対する「図」のように立ち上がっていると考えた。
 そして、これらのゲシュタルトのようなもの、あるいはスタイルのようなものを媒介にして、「私の習慣的な世界内存在」がつくられているのではないかとみなしたのだ。これがいわゆる「間身体性」とよばれるものである。
 きっと言語もそのようなものなのだろう。メルロ=ポンティは、言語は身体が身体図式を用いて外部の世界に対しておこなっている応答だとみた。言語が意味をもつのもそのためだと考えた。言語は何かの「地」に対して浮き上がってきた「図」であったのだ。しかし、このあたりの考察は『知覚の現象学』では、まだぶよぶよしていた。のちの『シーニュ』などを待たなければならない。

 ところで本書には、序文がある。そこには「哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験である」というすばらしい一文が書きつけられている。
 まさにメルロ=ポンティは「関係化」を考えつづけた人だった。それの関係化は底辺と端緒との両方で更新しつづけられた。根っこと葉っぱの両方である。きっと中村宏は、その根っこと葉っぱの両方を見るレンズがさらに必要だと言ったのであろう。












現象学的世界とは、先行しているはずのある特定の存在の顕在化ではなくて、存在そのものの創設なのではないか



まず「私の身体」は私によって意識されるとされないとにかかわらず、ある種の「身体図式」(schema corporel)のようなものをもっていて、これがいろいろな知覚や体験の変換や翻訳をおこなっているとみなした。いわば身体の中に“編集部”をおいたのだった



 そして、これらのゲシュタルトのようなもの(これが精神と肉体の間にあるとされるものだよな)、あるいはスタイルのようなものを媒介にして、「私の習慣的な世界内存在」がつくられているのではないかとみなしたのだ。これがいわゆる「間身体性」とよばれるものである。

phenomenology




身体の両義性
身体的主観は他主観と世界に共属し、相互主観性のうちにあるとした

言語やそれを用いる主観性より先にコミュニケーションがあり、そのスタイルは間主観性のひとつである間身体性からうまれる


まず先にコミュニケーションがある。これは間身体性の関係であり、ここから主観性が生成される。