愛について


Smashing Pumpkinsの「try try try」のPV。注射シーンあり。














僕はこのひとたちよりも、普通に生きられると思う。


ホームレスにはならないし、万引きもしないし、
恋人を売春させてドラッグを買ったり、
その恋人を流産させたりしない。



普通に家に住み、物を買うだろう。
恋人が喜ぶなにかを悩んで選んで贈るだろう。
もし恋人に子供ができたら清潔な病院で産んでもらうだろう。


でも、僕はこのひとたちよりも恋人を、愛せるのかな。
いつも一緒にいるだけで、幸せだと思えるのかな。
お互いより大切なものなんてないって、思えるのかな。


僕の住む世界にはなにもかもあって、ありすぎてて…っていうのは詭弁だな。
うん、僕の頭の中にある、誰かを愛するときに働く回路は、すごくいやな方向にとても繊細で、
あれがないとやだ、これがあるからやだ、今の時期はやだ、とかっていうふうに、
さまざまなバイアスをかけて人をみる。


昔僕の大好きだった人が、恋はハプニング・フィーリング・タイミングだといっていて、
僕はそれをきいてほんとうにほんとうに悲しくってしばらく泣いた。


僕は今でもその考え方を心のそこから憎んでいるんだけど、
結局僕もそういう考えをしているのだろうし、そのうえさらにごちゃごちゃと条件を付けてしまっている。





でも、本当の愛があるとすればそれは、ちゃちなマイナスなんて吹っ飛ばすもので、
そのためなら命だって懸けられるものなんじゃないのか。
同時に、ひとの、ステータスとか、所有物とか、将来性とか、
そういったことにまったく影響されずに築かれるものなんじゃないのか。


明日、僕が何もかも失って、全身を包帯で巻かれて、誰なのかまったくわからなくなって、
これからずっと働いたり学んだりできない体になっても、残る愛がほんとうなんじゃないのか。


吉田修一の「東京湾景」という小説にこんな場面がある。
主人公は高校のときの先生と付き合っている。
周囲には反対されていて、先生の家族の法事のときに、親族から、
教師が主人公と付き合っているのは、若い体目当てだろうという声がでる。
主人公はそれに逆上し、
「こんなものなくったって先生は俺を愛してくれるんだよ!」といって
灯油を体にかけて火をつける。


この気持ちはわかる。
体という、ある意味安易に存在しうるものに愛が依存しているのは許せないと思ってしまう。
愛はもっと、深い無風のところで、無意識に紡がれるものだと、信じていたい自分がいる。


でも、それってちょっと、ちがうのかなあと、最近は思う。
どんな人生を生き、どんなものを得、どんなものを失い、どんな思いをし、
どんな体をもち、どんなことばをいうのか。
そういうことが、ひとをかたちづくっていく。
その総体をだれかが愛するのかも、と思う。
もちろん、野球がすごくうまいからっていう理由だけでだれかを愛した気になるのは、
とてもむなしいことだと思うけど、
野球がすごくうまい一面を持つ誰かを愛するひとはいるし、それはすばらしい愛かもしれない。




でも、「すべてが社会的に構成されているんだから、愛もその例外ではないさ。」
って、したり顔で言ってしまうのは、やはり悔しい。
愛は特別なものであってほしい。
社会とか、そういうものから、自由であってほしい。
ゆるぎなく定義されるものであってほしい。







と、思うのであった。
言ってることが二転三転してることが示しているように、迷っています。
まあ、僕が将来、だれかをきちんと愛せるのかどうか、不安だっていうことが言いたいことのひとつなのはまちがいない。
本当に愛せるひとがみつかったひとは死ぬほどラッキーな人だと思います。
その幸せを逃さぬように。